水が流れるのと同じで、時間も上から下に、つまりは未来から過去に向かって流れている、という話をきいて、目からうろこだった。常々あたまのどっかで「結果は決まっている」と考えている節があり、自力をあまり信用してない。ふしぎと縁のある人は続くし、縁のない人はどこかでちぐはぐがおこる。「自然」か「不自然」かが起点になっていて、行動ひとつとっても「自然」ならばふっとできるし、「どことなく不自然」ならばなんやかんやできない。決断して取り組むというより、もっと巨大な存在に動かされている、みたいな感覚。
ただ疑問なのが「自然か不自然かって誰が(何が)感じとっているのか」なんだけど、これほんまむずい。タマシイと言ってしまうとスピみが増してぼやけてしまう、かと言って、心と言うとよけいにふわふわする。現代社会で流行りの「自分らしく!」みたいな文言に使われる「自分」は、そのまま「自分(らしくいるために適職を探せ、その手伝いを私たちがしますよ)」という就職・転職ビジネスが見え隠れするので、あまり好めん。もはや言葉(表現)の問題なんだが、いちばん伝わりやすい例ってコジコジなんじゃないかな!(こいつまたかよ)
数多あるなかでも特に印象的な場面がある。夕暮れ、おかめちゃんとドーデスが話をしている。コジコジたちが通う学校のなかで、いわゆる秀才のふたり。コジコジってテストはマイナス点を取るし、「遊んで食べて寝てるだけ」だし、社会的に実のある言動はしない。だからまわりは「ムダなことばかりしてる」と思う。だけど、ふたりは「コジコジにはムダがない」と共感しあっていた。
おそらく、コジコジはコジコジにとってしたいことをしているだけ。究極にシンプル。でもそれは、頭でこしらえたものさしではかると怠惰・ムダになってしまう。そのものさしって言い換えると常識・当たり前になる。つまりコジコジって常識や当たり前という装飾をつけておらず、素地で生きている。人間にそれができるかといえばまあ難しい。悟り開くか救い主になるか、くらいのレベルでは。ものさしも偏向もなく、ただ命(存在)のとおりに息を吸って吐く。
無為自然作為がなく、宇宙のあり方に従って自然のままであること。[使用例] 無為自然の世界では、万物斉同、人間の運命や因縁に、かかわりはなかった[中山義秀*芭蕉庵桃青|1970][解説] 「無為」「自然」は「老子」に見られる語で、老子はことさらに知や欲をはたらかせずに、自然に生きることをよしとしました。
やっぱりコジコジと老荘思想の相性よくない?!(※個人の解釈です)木に憧れ、水になりたいと言ってきましたが、今後はコジコジになりたいが口癖になるかもしれません。よし、遊んで食べて寝ます!(※これは怠惰です)
※2022年1月22日 note投稿